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 【関東州】

大連小崗子  は関東州大連市平和街に在つて、南満州鉄道
大連駅で下車すれば西南約十三丁、埠頭からは約十四五丁の
地点に在る遊廓である。市電は小崗子市場前で下車して西へ
約一丁も行けば此の盛り場に到達する。大体此の満州と云ふ
処は、乗物の非常に安い処で、支那人の二頭馬車に乗つて、
埠頭から小崗子辺進行つてもたつた二十銭位で事足りるので
ある。二頭馬車に乗つて大山通りや、浪華町通り辺を疾走し
たのみでも、既に異国情調を味はふには充分である。日露戦
争終焉後の明治四十一年に、遊廓の目的を以つて交渉したの
であつたが、当時の情況は遊廓を許さなかったので、事実上
は遊廓に等しいものではあつたが、表面は料理店として開業
し、酌婦(娼妓に同じ)を置いて営業をして来たものである。
茲は満州の玄関であり、同時に関東州の都なので、輸出貿易
の極度に盛んな処である。南満州鉄道の首発所であり、奥行
方何百里を有する広大な満州の野の産物は、悉く茲から捌か
れる事を見ても判らう。大連の岸壁には、常に六七千頓級の
大船が五六艘宛も横着けに成つて居て、満州の大広原を貫徹
して来る荷物列車の到着を待つて居る。斯んな状態であるか
ら、如何に世界的な大不況時であるとは云つても、芸妓及酌
婦(娼妓に同じ)を抱へた料亭が二十九軒もあつて一廊を為
し、酌婦は約二百五十人も居る。店は写真制で居稼式に成つ
て居る。送り込み制では無い。時間制で廻しは取らない。娼
婦は一時間二円、御定りは一泊芸妓で十五円以内、酌婦で七
円以内と云ふ事に成つて居る。芸妓の事を甲と云ひ、酌婦の
事を乙と云つて居る。但し此れは内地の女の相場である。で
右の外に支那人の酌婦も居るが、内地人の酌婦の約二割安以
下と見れば間違ひは無い。遊楼は、玉川、宮城楼、品川、松
月、筑紫楼、金時、新月、松島、泰東楼、藤の家、心清楼八
州、三笠、菊水、出雲、港楼、敷島、福住、吾妻楼、明月、
玉家、愛福亭、芙蓉亭、等。

大連市逢坂町遊廓  は関東州大連市逢坂町に在つて、満鉄
線大連駅で下車すれば東西へ約五十丁の位置である。市電は
春日町又は大門町で下車すれば宜しい。大連市の紹介は小崗
子の項でしたから茲では省く事にする。大連市には二大遊廓
があつて、一は小崗子であり、一は此の逢坂町である、小崗
子には貸座敷が二十九軒しか無いが、逢収町には現在七十軒
ある。芸娼妓の数も、小崗子は二百五十人であるのに、逢坂
町には約九百人居つて、規模に於て、又其の発展振りに於て、
到底逢坂町の比では無い。茲が明治四十年に最初創設された
当時は、僅々十戸に過ぎなかつたものであるが、今日の盛大
さから当時を回顧したならば、其の急激な発展振りには実に
感慨無量に打たれる事だらう。芸娼九百人の内芸娼妓が四百
人、娼妓(当地では酌婦と云ふ)が五百人居て、内朝鮮人が
百五十人居る。他は全部内地人で九州、中国地方の女が多い。
店は写真制で陰店は張つて居ない。芸娼共に居稼ぎ制で送り
込み制はやらない。遊興は時間制だから廻しは取らない。当
地の芸妓は二枚鑑札と同様で娼妓と同様な仕事をも公然とや
る事に成つて居て、御定りの甲が芸妓で一泊が十三円、乙が
酌婦で六円、一時間遊びが酌婦二円と云ふ相場である。遊楼
は、松竹、大斗、清川、一力楼、だるま、第四豊栄楼、芙蓉
楼、一富士、勇楼、舞鶴、第二千代喜家、三好楼、東雲、恵
比須楼、開盛楼、いろは、小富士、千代喜家、末広、音羽楼、
第二豊栄楼、神吉、一福、浮舟、大幸、香月楼、曙、菊水、
万花、魚藤、吉平、第一豊栄楼、太平楽、花園、常盤、快楽、
松市、相生楼、寿楼、八千代、正木亭、愛媛楼、藤栄楼、大
和家、恋敷、三田尻楼、美人館、喜笑楼、喜楽、開春楼、吾
妻楼、富田家、第五豊栄楼、第二末広、橘楼、代加楼、逢坂
楼、品川楼、万盛楼、満花楼、松月、山陽楼、第二逢坂楼、
安州館、大連館、日新亭、米山楼、紅梅楼、華山楼、逢川楼
等。

旅順支邸町  関東州旅順市支那町に在つて、南満州線旅順
駅から東北へ約十五丁、乗合自動車は善通寺迄行く、賃十銭
二頭馬車で行つても二十銭位なものだ。旅順は日露戦争で有
名な処。所謂旅順の要塞は世界一と云はれた程で、猛将乃木
将軍も敵将のステツセルには非道く悩まされた処である。今
でも要塞は其の儘に残つて居て、特殊保護が加へられて在る
破壊された要塞や、弾恨が今でもありありと残つて居て、恐
しい激戦の有様がまざまざと眼前に展開される様である。茲
は遊廓の様に一廓には成つて居るが、貸座敷の一廊では無い。
所謂乙種料理店の一廊で、大勢の芸妓や酌婦を抱へて置くの
だ。明治卅八年、旅順口の占領後間も無く開設されたもので
目下乙種料理店(貸座敷に相当するもの)は拾七軒あつて、
酌婦(娼妓と略同じ)は百十人、芸妓は三十人居る。女は長
崎、広島、福岡、愛媛の順である。店は陰店を張つて居て、
酌婦は全部居稼ぎ制だ。遊興は時間、通し花制で、廻しは取
らない。費用は酌婦の御定りが六円で、芸妓の御定りが十二
円である。此れで何れも一泊は出来るが台の物は別だ。一時
間遊びは二円見当。但し此の百十人の酌婦中には鮮人が三十
人居て、玉代は約二割方安い。附近には、二百三高地、白玉
山、黄金山、東鶏冠山等、日露戦争に名高い所が多く、附近
の原野からは名物の「ウズラ」が獲れる。妓楼は、遼東館、
東洋軒、蛤亭、新万歳、一力、吉田屋、笑福楼、吾妻楼、松
葉、浜名館、以上は内地人の酌婦の家で、京城館、明月館、
満月楼、昭和楼、春海館、堺楼、以上は朝鮮人の酌婦の居る
家だ。


この色の記述は平成15年〜現在のものです。
この色の記述は別の情報を参考にしています。

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